私同様長年フランスに住む友人、
何十年住んでもいまだ理解不能のフランス
という国やフランス人を理解するためには
ここの人民のベースである宗教、すなわち
せめてキリスト教というものに基づく
思考体系についてもっと把握しないと
太刀打ちできないかもしれないと
気づいたらしく近頃いきなりまじめな
ジャン・カルヴァンのキリスト教関連本
など読むことにしたのだとか。
それを聞いて「それっていいね!」と思った。
確かに、熱心であろうがそうでなかろうが
移民の大量流入によりいまどきやけに
多宗教国家には見えるが、元の元フランスの
いわゆる民族意識根底にある社会規範と
世界観を成しているのは
「絶対的キリスト教的なもの」であるから。
宗教観や歴史は、相手をよりよく知るためにも、
攻略するためにも、少しでも多く知っておくと
いろんな場面で人生の参考になるのはまちがいない。
そこで最近、私も、日本においては
ダイレクトに歴史の流れ方など学んでいくと
日本という国の持つ性質、日本人の特質、
固有の社会的抑圧、遺伝子レベルに刷り込まれている
思考回路とか概念がつかみやすかくなるものだなと
数か月前から日本史猛烈勉強中のダンナにつきあって
日本の歴史を聞いたり見たり読んだりしている
うちに気づく場面が多々あるのだった。
今回、鹿児島県南九州市知覧町郡では
第二次世界大戦における「特攻隊」に
ついての資料にたくさん触れる機会が
あったのでこれによりまたひとつ、
「日本」や「日本人」への理解と意識を
深めるきっかけになったようにおもう。
特攻隊(特別攻撃隊)はいわずとしれた、
自らの命を犠牲にしてアメリカ軍の船などに
突っ込んでいった飛行士たちのことですが、
この知覧は、戦況悪化の1945年から
本土最南端の陸軍特攻基地となり、もう
戦争は終りに近づいているにもかかわらず、
多くの若者(1036名)が上からの無謀な
命令によりこの出撃基地より毎日どんどん
沖縄の海へ飛ばされて大してきちんと整備も
されていない飛行機に乗って命を散らして
いかれた土地でありました。
周りは出撃前から彼らを「軍神」「英霊」
と呼んで崇めている形をとりながらも生きて
帰ることは一切許されておらずまかりまちがって
リアル飛行機の不具合などで戻って来た日には
酷い裏切り者扱いを受け、何度も、次こそは死んで
来るよう死を強制させられたようです。
当時の記録を多く展示している
「知覧特攻平和会館」
Chiran Peace Museum for Kamikaze Pilots
ではおびただしい数の、隊員たちの残された
家族への手紙や遺品を見ることができます。
もわ~んとした数多の悲しみの想念たちこめた空間は
ただただ本当に悲しくて、一生懸命目を見開いて
泣かないようにしてはみるのですが、これから国の
ために死ななければならない若者たちの手紙を
ひとつずつ読んでいるとこらえ切れず涙が溢れて
止まらなくなります。ダンナも私も鼻紙で顔を
抑えながら本当にヨロヨロになった。でも気が付けば
ここでは周りの誰もがみんな鼻をすすって泣いている。
そういう場所ってあるんだな。
少し離れた、
知覧武家屋敷庭園
の近くには、当時若き特攻隊員たちのいきつけで
あった富谷食堂という食堂があったそうです。
ホタル館 富屋食堂
この食堂を営んでいた鳥濱トメは「特攻の母」として
若者達に慕われており、現在こちらは当時の場所に
資料館として復元されています。小さな資料館ですが、
ここもまた一歩足を踏み入れると涙がはらはらと流れ出す。
とりわけトメさんの印象的な言葉は
「みんな極楽へ行く方々だからとても優しい」
というもの。祖国を守るため明日死に行く若者たちは
皆人一倍思いやりがあり立派で優しい人たちだった、
きっと彼らはなんらかの覚悟をしている人間特有の
常人に計り知れないオーラみたいなものも
発していたのでなかろうか。
下の写真は出撃直前に撮られた写真、
これから死ぬのに、ちょっとおどけてたり、
楽し気でいい笑顔だったり、もうなんだか今の
我々には想像さえできない心境。
特攻隊のことは、いままでそこまできちんと
知らなかったけれど、日本人の中にある
このような犠牲的精神を知り、またこういうことを
強制する文化的土壌があることも知り、こういった
人たちがいたという歴史の上に今の自分が成り立っている
ということを意識し、今後記憶の中に確実にとどめるためにも
今回鹿児島滞在中に知覧を訪れることができてよかった。
フランスに帰ってからダンナと見た映画
2007年公開の
は、この知覧のふたつの資料館を見た後で
鑑賞するとすべてのシーンや情景が
ドキュメンタリーのようによりわかりやすく
繋がってするすると頭に入ってくるので
知覧の記憶をかためるのにオススメ。
