昔からぼんやり気になっているのだが
なぜ人は「パリ」や「フランス」という響きに
やたら弱く、パリばかりがなにかとぶっちぎりで
世界の人々からもてはやされ憧憬の的都市と
なりがちであるのか?確かにパリはパリなのだが
住んでいるとやあやあそこまで憧れるほどの
ことはないっすよ、ということが山積みであり
むしろヨーロッパの他の国の都市の方がいかにも
ヨーロッパ然としてきれいだったり絵になる
場合も多々あるのではないかとよく思っていて、
大昔訪れたウィーンも確かそんな印象だったので
今回もう一回その確認兼ねて来てみたらやはり
思った以上にヨーロッパらしい素敵な街だった。
毎日ダンナと
「やばい、ヨーロッパ!いいっ!!」
と口々に叫びあったのは私たちがヨーロッパに
飢えていたからなのか・・
ウィーンで行きつけのスーパーは
BILLAまたはSPAR。
フランスの無秩序ぷりに比べるとウィーンは
車の駐車の仕方も間隔もきっちりしているし
スーパーも品物がきれいに整然と並んでいて
たびたび国民性の違いを感じました。
とある瞬間全くドイツ語を理解できない私であるけれど
少々甘めでシュワっとした、しかしそこまで
ジュースっぽくない喉うるおすドリンクが欲しいなと手探り
予想のみを頼りにこれ買ったらフルーティ&シュワで大当たり。↓
さて、この日は午後の自転車活動の旅に
出たダンナと解散し、
(近年どこでもマイ・チャリ持参したい症候群)
珍しくひとりで地図も何も見ずぷらりと思うまま
ランダムに散策していたら偶然ウィーン大学発見。
オーストリアのウィーン大学といえば
精神科医ジークムント・フロイトが
医学を学びその道の専門家としてのキャリアを
スタートした場所、なおかつ、この近くにはフロイトが
かつて住んでいて、現在は博物館になっている
「ジークムント・フロイト博物館」があるのだった!
と、思い出してあんまり地図読めない方ですが
ぼや~と感覚的に暗記してぼちぼち向かってみた。
こっちのほうかな??と
なかなかアバウトに歩いてたら合ってたみたいで
お目当てのブルクガッセ通り発見!
このゆるやかな坂道をフロイトも歩いていたのだなぁ
と思ったらすこぶる感慨深い瞬間。
いま、わたし、フロイトしてる。(動詞風)
建物が全て似ていて見分けがつきにくいが
ここの19番地がフロイトの元お家診療所の博物館!
うれしい気持ちでウキウキに足を踏み入れたら、、
この日は休館日だったという素敵なオチ。。(*´Д`)
(行動アバウトめだから事前調査をわりとしてない)
でもいいの、全然大丈夫。内部は見れずともフロイトが
生活していた場所の空気感をたどるというのがテーマ
だけに、とりあえずフロイトがゴミ出ししながらしっぽり
したかもしれない中庭見たり、フロイトも上り下りしたで
あろうアパルトマン階段上り下りしたり、大昔から映画や
文献でいやというほど名前を見聞きしてきた人物に
思いをはせながらこの空間にて貴重な時間を過ごした。
ウィーン大学も町の中心部も徒歩圏の立地なので
いろんな意味で便利な場所であろう。ここ住める。
1856年生まれのフロイトは3歳から
その人生をほぼウィーンで過ごした生粋の
ウィーンっ子であったとおもうが、
ユダヤ人であったため1938年ナチス・ドイツの
オーストリア侵攻の際にずっと拒んでいた亡命を
決意してロンドンに渡り、翌年1939年9月23日に
癌で亡くなった。第二次世界大戦前のユダヤ人の
移動・亡命タイミングについて個人的にものすごく
よく考えるのでこのタイミングはさすがだなと思う。
しかしながら残されたフロイトの4人の妹たちは
数年後に収容所で殺害されたそうなので苦しい決断
だったと思われる。ちなみに一瞬ドイツ人かと
おもいがちなヒットラーがそういえばオーストリア人
であるというのもこの旅でしばしば思い出す件。
髪の毛黒黒若かりし頃のフロイト↓
フロイトの血脈はちゃんと存続しており
孫はイギリスの有名画家ルシアン・フロイド↓
ルシアンの娘でフロイトひ孫のベラ・フロイドは
ケイト・モスなどのロンドンセレブリティ御用達
ファッションデザイナー、
下の写真ベラの左は彼女の息子らしいのでたぶん曾曾孫
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